考えることが好き─42gifts的「ギフテッドの特徴」その①
忘れもしない,小学校1年生のときです。
授業で,一人一つずつ,“ぼくは/わたしは,〇〇が好きです”と好きなものを発表するという機会がありました。
みんな,サッカーとか漫画とかピアノとかバレエとか,次々と答えていきました。「勉強」と答えて笑いを取るひょうきんな子もいます。
そんななか,私は焦りに焦っていました。
…私は一体,何が好きなんだろう?
絵を描くこと?
図鑑を読むこと?
空を見上げること?
遠くの風景をただ眺めたりしていることの方が楽しいこともある…
「好き」ってなんだろう?
そういえば「好き」って言っても,色んな「好き」があるし…一つになんて決められないよー…
「好き」ってどんな気持ちのことか,わからなくなってきた。
みんなどうしてそんなズバッと答えられるんだろう。
ここは誰かの答えの中から自分に近いものを真似して1年生らしく(※)したほうがいいんだろうか。
わーどうしよう何か決めなきゃ…
(※)私は,子供の頃,自分が置かれた環境や(他者との関係性の中にある,という意味で「客観的な」)自分という肉体存在と,その内側にいる私自身の姿がずれ過ぎていることにとても違和感をもっていました(すごく単純にいうと,中身の自分が周りと違って子供らしくないことに悩んでいたということです。)。
折に触れて
「私は●●年生まれで,今××年だから7歳で,“義務教育”で皆学校に行かなきゃいけなくて(以下略)…だから私は今『小学校一年生』なんだ」
みたいなことを考えて,写真や鏡の中の自分が周りの子と変わらない年齢の子供に見えることを確認して,やっとそれが「現実」であることを納得するという始末でした。(※)
皆が順々に発表していき,自分の番が近づいてくるまでの間,私はそのようなことをぐるぐると考えていました。
結局,このように答えました。
「私は,考えることが好きです。」
…とはいえ,これは完全に自分で編み出した答えというわけではありません。
将棋の女流棋士,清水市代さんがインタビューに答えて発言されていて印象に残っていたものを,すんでのところで運よく思い出し(笑),借用させていただいたのでした。
しかし,それを自分の言葉として発したとき,
これまで自分がたくさん「考えて」きた事柄──自分が死んだらこの「私」として経験した記憶は失われるのか,
私が「私」と感じているこの感覚自体がなくなってしまうのか,
あの遠くに見える山が今この瞬間間違いなく「山」として存在することを確かめることはできないのではないか,等々──が同時的に思い出され──
──そして腑に落ちました。
ああ,私は考えるのが好きだったんだ。
「考える」ってなんだろうとか,やっぱり「考えて」るじゃん。
その後もずっと,私は,考えてきました。
クラスのお楽しみ会で面白い出し物のアイディアを出しているうちに,「面白さ」とは何かを大真面目に考えていたり。
算数や数学の問題だったら,教科書に書いてある以外の解き方がないかどうか考えたり。
普段,(自分を含めて)人々が当たり前に言葉を当てて認識し,感じ,共有していること。
疑問をさしはさまずに受け入れてしまえば「そういうもの」として難なく生活できる事柄が,
本当の姿は「そういうもの」でないかもしれない,
何の必然性もないかもしれない…
その,足元をすくわれるようなふとした疑問や違和感に惹かれ,そして,
それが本質的に理解不能と(大人になって哲学や物理その他の知識をかじってみた結果)知ってもなお,
それを理解してやるという欲求ないし意志に駆られて,
私は今日も考え,日に日にめんどくさい人間となってゆくのです。