ギフテッドの出会いと支援
ギフテッドとの出会いは,20年近く前の土曜教室。
当時は,“ギフテッド”は,知識としては存在していたが,自分が関わるとは思ってもいなかった。
北大での土曜教室の取り組みをまとめた論文
「軽度発達障害児への教育的支援—土曜教室における支援を通して特別支援教育を考える―」第2章北大土曜教室の教育的意義,第5節
でギフテッド教育の可能性について述べている。
この論文が,ギフテッドの臨床研究と向き合うスタートラインだったと思う。
当時から,土曜教室では優秀知(IQ120以上)とされるカテゴリーに入る子どもに対しての支援に取り組んできた。
その一人に,独創的なアイデアで様々な工作を創り上げる子がいた。その作品には,いつも感嘆させられていた。
彼は,凸の部分としての高い知能,高い創造力,豊富な語彙力。
凹の部分としてのディスレクシア,不器用,対人面の弱さを持っていた。
支援をしていく中で,苦手な読み書きよりも,本人の持っている高い知的能力と興味関心に目を向けるようになった。
彼への支援について,論文から引用させてもらう。
「苦手な部分に拘泥するのではなく,その高い能力を生かし,興味・関心を広げることを目的として,ある理系研究室の訪問を試みた。
そこで行われている研究内容は,無論,中学の学習の範囲を超えていたが,彼は興味を持ち,担当した院生に質問をすることができた。
将来,大学での自分の研究するテーマにも思いをはせていた。
高校入学後は現代国語が苦手な科目であった。読みや注意に課題があり,要約や文脈の理解が苦手だった。
このことについては個別指導において,新聞記事や評論の解説に関してディスカッションを行なうなどした。
他方で,ピタゴラ装置作りにも取り組んだりした。A 君に対する支援は,凸凹(認知特性)を踏まえて取り組まれたと言える。」
彼は,その後いくつかの挫折を乗り越えながら,自分の世界を切り開いていった。
その都度,丁寧に関わってはきたのだが,凹の部分(学習面以外の困り感)に対し,きちんと手当をできていたら,もっと楽に過ごせたのではないのだろうか。
今も自分の中で問い続けている。
その後,縁がありこの領域と関わることになり,多くのギフテッドの子供や青年と出会うことができた。
共通して言えることは,高い知的機能や創造性を持ちながらも,学習面だけではなく生活面,対人面,感覚面にも困り感を持ち,アンダーアチーバーで,常に生きにくさを抱えている。
今,求められているのは,ギフテッドの抱える凸凹を理解し,「強いところは伸ばし,弱いところは手当てする」,そんな当たり前の教育。
そのためには,当事者や保護者を巻き込んだ中での,学際的な研究と,それに基づいた支援が求められていると思う。