観察力がある─42gifts的ギフテッドの特徴③

1 観察力のこと

ときたま,他の人に「観察力がある」と言われます。

たしかに,物や風景を見ていて,他の人が気づかない細かすぎることに目がいき,それをよく覚えているということは多くある気がします。

 

雲の形がちょっと違う,

1日で木の葉の色がだいぶ変わった,

電車の中から見ていると,前見たときと川の幅が違う,あの辺から雲が発生している,

同級生や同僚が少し髪を切った,

新しいアクセサリーを付けている・・・

 

そのほか,身近な人が持っているハンカチやペンケースの色,着ている服の形や素材感まで,見て記憶していることは多いほうだと思います。

それは,特に一生懸命「見よう,観察しよう」と意識しているのではなく,一種の癖のようなもので,

私の実感としては,たまたま,視覚に入るものの中で注意力のアンテナが働くポイントが人より多かったり少し変わっていたりして,なおかつ多少の記憶力が手伝って,よく覚えていることもある,くらいの認識です。

 

今回,この記事を書くために改めて「観察力」とはなんぞや,と簡単に調べてみました。

あるサイト(https://eigobu.jp/magazine/dousatsuryoku)によれば,観察力とは,上記に挙げた例のように,主に視覚的にとらえられるものを対象としている言葉だ,との説明でした

(以下,紛らわしさを避けるため,視覚的な意味に限った観察力のことを「(狭義の)観察力」といいます。)。

 


このサイトでは,「洞察力」と「(狭義の)観察力」の違いにフォーカスを当てており,狭義の観察力は洞察力をなす一要素であるとされています。

 

ただ,日常では両者は明確に区別されないことが多いと思いますし,当42giftsが「ギフテッドの特徴」として挙げる「観察力」という言葉のなかにも,洞察力のニュアンスを含まれているのではないかと思われます。

 

そこで,洞察力の意味合いを含む「観察力」についても,少し触れてみたいと思います。

 


2 洞察力のこと

「観察力」を洞察力の意味で用いている典型例は,「人間観察力」ではないでしょうか。

視覚を含む五感や,ある人が発する感情や言葉を読み取り,それらの総合評価の結果として「その人」をとらえる。人間観察力とは,そういう意味だと考えられます。

 

その意味で,人間観察力に関する私の一体験談としては,

周りとトラブルを起こしがちであったり,他人の足を引っ張ったり蹴落としたりするのが好きであったり・・・という意味で

「距離の取り方に気を付けるべき人」を見抜くのがとても早い,ということがあります。

(この能力が身に着いた要因は,昔,ある意味でのやさしさやお人よしが過ぎたために対人関係で無用に傷つくことが多く,それから身を守るためという点が大きいと,個人的には思っています。)

 

まだそれほど打ち解けておらず,当り障りのない話に終始している段階で,すでにわかります。

この段階では,他の人に話しても理解してもらえないことが大半です。

どこを見ているのかあえて説明を試みるとすれば,

 

顔つき,話すときの声のトーンや発音の癖,

黙っているときと話しているときの表情のギャップ,

どんな些細な話であっても,何かを発言するときに選ぶ言葉,

 

に,主に気を付けて見ていることが多いです。

 

 

あるとき,ある集団のなかで,(病的な?)虚言癖の人がいることに早々に気づき,個人的にその人と少し距離を置きはじめました。


ただ,いつものように,当初は他の誰もそのことに気づきません。

そうすると,かえって,私のほうが,激しい好き嫌いで人を選んでいる性格のきつい人,と思われることになります(自分がそういうことを見抜く能力に長けているのだとはっきり理解するまでは,これが本当につらかった。そうやって好き嫌いをしてしまう自分をひたすら責めていました。)。

だいぶ後になり,具体的な事例が積み重なる中で,その集団において,

「あの人は少し注意して関わったほうがいい」

という認識が広まっていって,その段階になって「あなたには観察力がある」と言ってくれる人がちらほら出てきます。


でも,そんなとき,かつての私は,「ありがとう」といって曖昧に笑うだけでした。

 


3 長け(すぎ)た能力とどう付き合うか

観察力に限らず,圧倒的多数の人には理解されない突出した能力を持っている場合,全く同じ認識に立って「共感」できるのでなくても,

そういう能力がある事実を認め,そのことを何らかの形で尊重してくれる人が一人でもいれば,そしてその人がより身近な存在であれば,

その能力が自然な形で発揮されやすくなるのではないでしょうか。

 

小学校時代の恩師

私の場合,小学校2年生のときの担任の先生には,ほんとうに救われました。

学校では,折に触れて日々の出来事や新しく見つけたこと,できるようになったことをノートに書いて提出する機会がありました。

担任の先生は,それら一つ一つに好意的なコメントを下さっていました。

そして,年度が終わって先生も他校に転勤されることになった際,クラスの一人ひとりにメッセージカードをくれたのですが,

 

私宛のカードには,

感性の鋭さにびっくりしたこと,そして色々なことを教えてくれてありがとう,という言葉が書いてありました。

 

当時私は,自分の親には,注意力散漫で夢見がちな,ぼーっとした子だと怒られ続けていました。

先生のその言葉で,全然違う角度からライトを当ててもらえたようで,その後もずっとそのカードをお守りのようにしていました。

 

また,今の職場の上司も,私のことを,「自分が気づかなかったことに気づいてくれるヤツ」と評価しているようで,職場生活はかなり居心地のよいものになっています。

 

ギフテッドとされる人びとにとって必要な第一歩は,その「gifts」の存在を他の人に尊重してもらえることだと思います。

既存の評価軸には乗りにくい多様な性質・能力を尊重する度量,そしてその「gifts」が十二分に発揮された社会の在り方に対する想像力を持っていたいものです。

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